明日で東日本大震災からまる4年ということで、メディアではそれらに関するニュースや情報番組などが放映されておりますが。

その内容はと言えば、
津波、復興、原発、震災に遭われた方々のその後の生活、またはその心情、などなど。

具体的に掘り下げていけばもっとたくさんあって切りがないけれど、おもに取り上げていると言ったらこういう事柄なのかな、と思う。

だけど今回はそれとは別に、ワタクシさかごろうがあの地震で体験したこと、そして感じたことをいくつかツラツラと書いていきまする。


あの地震のことで、今真っ先に思い浮かぶのは・・・・・・・・・・・・うーん・・・・・・いろいろあるんだけれど。

一つは、ああいう自然災害に遭ってしまったことで、それまで誰しもが心の中で押さえつけてきた負の感情が爆発した場面を何度も見かけてしまったことかな。



地震が起きて、水も電気も止まってしまったので、(ウチはプロパンなんで、ガスだけはなんとか繋がってはいたけれど。それでも、車のガソリンがストップしてしまったことによってガス会社がいつボンベを運んできてれるか分からなかったのよね。ウチにあるボンベにどのくらいのガスが残っているのか分からなかったので、しばらくガスを使うことも控えていた。)まずは水の確保をするために、給水車が来ているという小学校まで片道15分ほどの道をダンナと二人で行ったときのこと。

夜の7時頃。
小学校の校庭はすでに長蛇の列で。でも、その長蛇の列がなかなか動かない。
聞けば、あまりにも給水を求める人が多すぎて水が無くなり、今また新たに水を運んできている最中とのこと。

待つしかしょうがないからそのまま並んでいると、ウチらの後ろに並んでいた50代くらいの女性と、70代くらいのおじいさんが話しているのが聞こえた。
お二方ともたまたま前後に並んでいただけの他人同士だったみたいだけど、世間話で盛り上がっていた。
話の中身は主に震災後の出来事とかだったけど、そのうち、市の対応がなっていないという不満話に変わってきた。
そこへ、給水活動をしている職員の方が、列に並んでいる人たちに給水が遅れているお詫びと、あと2時間ほどで新たに給水車が到着する旨を列の前から順番に説明している姿が見えた。
そのうち、ウチらが並んでいる列にも来て同じ説明をされてたんだけど、その最中に後ろの女性とおじいさんが職員さんに不満をぶつけていた。
女性は、
「私は昼間もここで給水が行われるというから来たのに、その時も水が足りなくて結局貰えなかったんですよ!だからまた来たのに、あと2時間も待つって、どういうことですか! ウチには水がなくて、子供たちが待ってるんですよ!」・・・と。

職員さんは、申し訳なさそうにひたすら謝ってばかりだった。

その女性の気持ちは、私もよく分かる。
私もその女性と同じように、その日の昼間も小学校に来たのに結局水が貰えず、今またこうして来たのに、また更に2時間待ち。家には塩釜のお義母さんも連れてきてたし、家族3人が飲める水は僅かしか残っていない。
職員さんに不満をぶつけたくなる気持ちもよく分かる。

だけど、、、、、、。
あらかじめ防災の用意を怠っていた自分が悪いわけだし、それに、その職員さんは宮城県の方ではなく、遠く関東の方からわざわざ来て給水活動をしていた。
そしたら、思っていた以上に水を求める人が多すぎて間に合わなかったというだけのこと。
職員さんを責めたところでどうしようもない。

その女性も本当は職員さんに不満をぶつけたところでどうしようもない、ということは分かっていたはずなんだと思う。
だけど、地震が起きてまだ一日しか経っていなかったし、それでなくてもみんな不安ばかりが大きく。
そんな状態の中でも家族の事を思えばこそ、どうしようもないと分かっていても、職員さんに不満をぶつけずにはいられなかったんだろう。

その職員さんが去った後、まだ女性とおじいさんはいろいろ言っていた。
私もダンナも聞きたくなくてもどうしても聞こえてしまうその話を遮りたくて、地震が起きてからそれまであった会社や家の中の出来事を冗談めかして話をしていた。
同じ震災の話をしている・・・と、ウチらの話をなんとなく耳にしたのか、後ろのお二人もウチらと話をしたそうにこちらをチラチラ見ていたけれど、さっきの職員さんの件もあって、敢えて顔をそむけて知らんふりをしていた。
気持ちはよく分かるけれど、だからって職員さんに不満をぶつけるのは違うと思ったから。

結局、1時間半後に給水車が来て、みんな無事に水を貰うことができた。
帰る道すがら、ダンナはさっきの女性の態度を怒っていた。
「関東からわざわざこっちに出向いて助けてくれてるのに、あんな言い草はないよな!」と。
それに対して私は何も言えず、「うーん・・・・・」と、唸っているだけだった。



とまぁ、思いもがけず、こぉーんなに長い文章になってしまったけど。
あの震災でまず思い出すのは、一つはこの出来事なのよね。

あとはねぇ。。。。。
ライフラインは中心部の方ほど復旧が早く、私の実家も中心部に近い方なので、地震が起きてから数時間後(それとも次の日だったかな?)には水も電気もガスも、ウチより早く復旧していたらしく。
それに、防災用の飲み水も日ごろから備えておいていたとのこと。
私が母親の無事を確認するために電話をした際、
「水がないんだったら、ウチにあるから取りにおいで」
と言われたので、いつもは車で15分ほどかかる道を、ガソリン代を節約するため歩いて行った。
てっきり車で来るもんだと思っていた母親はとても驚いて、「こんな重たいペットボトルを持って歩いて帰るなんて無理なんだから、遠回りになっても動いている交通機関を使って帰りなさい」と言われ、事実、その時の私はそうとう疲れてたし、食べるものもずっとおにぎりとお菓子しか口にしてなかったせいか力も出なかったので、母親に言われた通り、途中から交通機関を使って帰った。

地震が起きてから電気が通らなくなったので、もちろん家のパソコンは使えないし、その時はまだアイフォンじゃなくてガラケーでさ。ネットで自分の無事をみんなに伝えたかったのに、電話はなんとか繋がるのにネットにはなかなか繋がらなくてね。災害用伝言版の番号にかけても、いつも回線が込み合っててたし。

(みんな心配してるだろうなぁ)

って、ヤキモキしてた。

んで、さっきの水を貰いに実家へ行く時の話に戻るんだけど。
歩きながらさ、その時使っていたalfooになんとか繋がらないかな、と思いながら何度か試してみてたのね。そしたら何回目かのチャレンジで急に繋がるようになってさ。
そのalfooに書いた私の伝言を見た友達が、すぐさまこのBLOGに私が無事でいることを知らせてくれたお陰で、どうにかみんなに伝えることができた。
その友達は、私の安否を心配して家の電話にまでかけてきてくれてね。でも繋がらないから留守電を残してくれたんだけど。
なにぶん電気が止まってたのでね、それを聞いたのは数日後でさ。
それを聞いた時は胸がジーンとしちゃってさw
その留守電は、今でも消さないでとっておいてある。

そうそ、胸がジーンとしたのは何もそれだけじゃない。

県外の友達が、仙台のここで炊き出しをやっているとか、ここに行けば○○が貰えるとか。
私がそれらを見ているかどうかも分からないのに、日に何度もそういった情報を流してくれてたこと。
残念ながら、普段ならそれらの場所は車だったらすぐに行けるような場所なんだけど、その時てっとり早く動ける手段が自転車ぐらいしかなかった私には遠すぎて行くことができなかった。
でも、その気持ちが嬉しかったし、ありがたかった。

それに、ずっと後になって、確か一ヶ月後ぐらいにようやく気付いたことだけど。
ネット上で、ある期間だけ人探しの情報を提供、または求めるサイトがあって。
そこに、その友達が私の特徴を書いて探してくれてたこと。
こんなに自分の事を心配してくれて、そしてできるだけのことを全てやってくれてたんだな、という事実に、家パソの前で思わず嬉し泣きしてしまった。


話は前後してしまうけど、近所のスーパーやコンビニ、お店というお店が全て機能停止してしまったので、震災後しばらく数日は食料を確保することにダンナも私も毎日必死だった。
まさにサバイバルだな、、、なんて思ってた。

お店に残っている僅かな食料、電池やウェットティッシュなどの必需品は、1時間並んでもうすぐっていうところで、私の2、3人前で売り切れなんてこともよくあったし。
取り敢えず食料を確保できたら、今度は“何時から小学校で給水します”という情報を聞きつけ、すぐさま容器を持って水を貰いに行ったりして。

もう、今思い出すと笑っちゃうぐらい毎日がサバイバルだったなぁ。笑いごとじゃないんだけど。

そんなんで、少しずつ、少しずつだけど、私が住んでいる地域もライフラインが整い始めて、近隣のお店も営業時間は短いけれどお店が開くようになってきて。
一ヶ月後の4月初めの休日。
用事があって仙台駅前に行った時。
ペデストリアンデッキを歩く人たちは、みんなお洒落な格好をして、表情も明るくて。
それだけ見たら、ほんの一カ月前にあんな大きな地震があったなんて微塵も感じないような、いつもと変わらぬ街の風景があった。

普通ならそこで喜ぶべきところかもしれないんだけど、私はその風景を見た時ね、複雑な気持ちだったなぁ。
だって、いくら中心部は機能が正常になっても、同じ県内のある町では、一カ月経ったその時点でもライフラインがままならず、物資を届けたくても道路もまだ完全には整ってなくて、その場所へ行くことも困難だったという状態だったし。
不自由な避難生活をしていた人がまだまだたくさんいた一方で、中心部ではいつもの生活に戻れて、余裕すらできている。

どうしてこんなに格差ができてしまうんだろうと疑問を感じていた。


うーんと、あとね、、、、、一つ気付いたこと。
食料だ、水だ、と動き回る日々も、ライフラインが通ってからはそれらも少しずつ落ち着くようになり。
その頃テレビのニュースでさ、自身も災害に遭いながらもボランティアとして懸命に働く人たちの姿をよく見かけてたんだけど。
その姿を見る度にね、自分の家のことを守ることに毎日必死で、周りの事、例えばご近所さんのこととか、何にも見えてなかったな、結局私は自分の事しか考えてないんだな、ということが痛いほど分かった。
震災があってから改めて気付く・・・なんてことが、とても情けなかった。



あ! あと、もう一つ印象に残っている出来事があって。
地震が起きる前までね、家事をする時は i Pod でエレカシをずーっと聴いてたのね。
いまでも時々聴いてるけど、その時はほぼ毎日、とにかく家事をしている時はずーーーーーっと聴いてた。
だけど、地震が起きてからエレカシ聴いてるどころじゃなかったからね。
というか、音楽を聴くことさえ忘れてて。とにかくもとの生活に戻すことに必死だったから。

でも、4日目だったか、5日目だったか。それとも一週間後だったか。
ある夜、大事なものをまとめて入れているバッグの中身を整理しようとして、その中には i Pod も入れてたんだけど。
ふと何気なく手に取って、聴くつもりは全くなかったのに、これまた何気なく聴いてみたのよね、エレカシを。

そしたらさ、そのエレカシの音を聴いてたら、震災前の当たり前に過ごしていた日常を突如思い出して、それまでずっと張りつめていた気持ちがフッと緩んだせいか、聴きながら泣いちゃっててさ。

その時に居た場所が玄関前で寒かったこともあって、いつまでもその場にいられなかったし、それにいつまでも部屋に戻ってこないとお義母さんとダンナが心配するから、あまり長い時間は聴けなかったけど。

あの時の気持ちだけは、なんて表現していいか分からない。
嬉しかったのか、単純に懐かしかっただけなのか、哀しかったのか。

この話ね↑、いろんな人に話したのよね。
私の周りでも、このサイトでも。
私の中ではある意味衝撃的な出来事なんだけど、この気持ちをうまく言い表せなかったせいか、誰に話しても共感してもらえなくてさ(苦笑)
みんな、「ふーん」とか、「へぇ、そうなんだ」で話が終わっちゃってww
ちょっと寂しかったな(^。^;)

でも・・・・・こんな話じゃぁ、「ふーん」で終わるのも無理はないよねぇ。



、、、、って、あら?(汗) ほんのちょっと、さらっと書くつもりだったのに、一旦記憶を辿ると後から後から止めどなく思い出しちゃって、気がつきゃこんな長くなってしまった。
しかも思いつきで書いてるし、文章にまとまりがない。

ここに書いたことって、震災後、間もない頃にも同じことを書いたはずなのよね、確か。
チョコチョコと、切れ切れに。

んでまぁ、明日は11日だし、ここらでちょっとまとめておくか・・・ってな気持ちで書いたんだけど、全然まとまってない。
それでもまだまだ話したいことはある。中には笑える話もあるのよね、本当は。


メディアで流している震災話とはまた違う、私の中の東日本大震災を、ほんのちょっとでも何かに残しておきたくて。
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2015.03.10 Top↑
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